北海道には廃墟マニアを唸らせる廃墟がたくさんあります。
その中でも多いのが、1970年代以前まで、日本を支えた炭鉱に関する廃墟です。
鉱山の周りには一つの街を形成しており、その当時の勢いを物語っています。
閉山とともに、街一つが丸々廃墟/ ゴーストタウンになるわけですからすごいことですよね。
今日はそんな中でも比較的行きやすい、羽幌炭鉱アパートをご紹介します。
1.そもそも炭鉱アパートとは?
羽幌炭鉱(はぼろたんこう)は北海道北西部留萌炭田の中心的炭鉱。1935年操業開始。羽幌本坑、上羽幌坑、築別坑の3地区から成っていた。良質炭を産出することで知られ、大変人気があった。出典: Wikipedia
羽幌炭鉱は羽幌町からも20km以上離れており、周りには本当に何もありません。
羽幌町から15kmほど離れた時点で、圏外になります(北海道は未だに圏外の場所多数)。
普通であれば廃墟なんてすぐに取り壊してしまい、立ち入り禁止になっていますが、ここは公認の廃墟です。
建物の前には看板が立っており、何に使われた建物なのかの説明さえあるという観光地仕様!
監視員の方や管理者も見当たらないので、侵入者で荒れ放題か?と思いきや、山奥にあるため保存状態は良いです。
ビビリな軽い廃墟系女子には実に行きやすい一件です。
2. それでは廃墟の姿、ご覧ください
2-1. 第一選炭工場・貯炭所
昭和34年 (1959年)10月完成。バウム選炭機を完備。主選機100トン用2基と再選機50トン用1基の他、近代科学の粋を集めた機械を装備し、1時間の製炭能力230トン 年間で60万トンを可能にした。貯炭所(ホッパー)には、2000トンの容量を持つ精炭ポケットが配備され、選炭工場から運搬ベルトが複綜していた。
出典: 説明書きから
1959年なので、58年前に完成したことになります。
羽幌炭鉱が閉山したのが昭和45年(1970年)なので、11年間、日本のインフラを支えていたんですね。
バウム選炭機というのは、水中で上下の振動を与え、石炭の重さによって使えるものと使えないものに選別する機械のことです。
1950年代に海外では石油の発見があったにもかかわらず、総工費1億8000万円(出典: 鈴木商店記念館)もかけて完成させたんだとか。
その時代に生きていないのでわかりませんが、当時の人々は石炭から石油にこれほど劇的に変わって行くなんて、想像しずらかったのかもしれません。
2. 羽幌炭鉱鉄道病院
昭和19年(1944年)開業、昭和31年(1956年)増改築。内科・外科・産婦人科・耳鼻科・レントゲン科 病室14 ベッド数50 医師4名 看護婦 他職員38名
出典: 説明書きから
選炭工場ができたのが1959年に完成したのに、なぜ病院は1944年に開業しているの?
と思いましたが、炭鉱自体は1935年に操業を開始していたのでむしろ遅いくらいだったのかも。
病院や学校の跡があると、ここに街があったんだと感じますね。
現在の羽幌町からは遠く離れ周りに他の街がないことから、本当に炭鉱で働く人のためだけに作られた病院のようです。
木草が鬱蒼と生い茂っており、道路脇から見つめることしかできませんでした。
3. 炭鉱アパート
昭和44年(1969年)完成。鉄筋コンクリート4階建2DK。4棟96戸 水洗トイレ完備 家賃、電気代、水道代、燃料代は会社負担。翌年閉山、住人が入居したのは1年あまりのことであった。
出典: 説明書きから
今は何よりクマが出そうで怖い。
2DKが家賃光熱費無料で入れるって…福利厚生すごすぎる。
この時代にこの設備、生活環境は都市部と変わらないほどでした。
一瞬でもいかに炭鉱産業が潤っていたか、そして危険であったかが伺えますね。
鉱山事故に巻き込まれる可能性が高かったため、法定外福利費は全産業の3倍だったんだとか。
この時期、スキー部・バレー部・野球部は全日本都市対抗選手権で優勝したり、五輪候補者が出るなど、今の姿からは想像もできないほどの活躍ぶりを見せていたようです。
出典: 説明書きから
なんという栄枯衰退…
1950年代に20代だった人は、現在80代。
当時の生活はどうだったのか。炭鉱が閉山した時の様子など、ぜひ聞いてみたいです。
3. 羽幌炭鉱アパート 基本情報
〒078-4145, 築別炭砿 羽幌町 苫前郡 北海道 078-4145参考: Wikipedia, 日本の炭鉱遺産, 鈴木商店記念館